• 2024年5月12日
  • 2024年5月10日

ほしのディスコ「感謝と尊敬の念が絶えない」気丈な看護師の母に支えられた闘病生活

 

先天性の病気「口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)」を持って生まれ、幼少期から8回もの手術を経験してきた、パーパーのほしのディスコさん。口唇口蓋裂とは、胎児がお腹の中で成長する過程で唇から鼻にかけての癒合ができず、顔に裂け目がある状態で生まれてくる病気です。

そんなほしのさんのお母様は、現役看護師。病気のほしのさんに寄り添いながらも、離婚後、祖父母を頼りながら夜勤をこなし、シングルマザーとしてほしのさんを育てあげました。

5月12日は母の日であり、看護の日。これまでのお母様への感謝や、再婚する前に複雑だった気持ちまでをじっくりと伺います。

気丈で明るい看護師の母に支えられた闘病生活

幼少期のほしのディスコさん(左)と、お母様(右)。

母は病気の僕の将来を悲観したり、落ち込んだりせずに、「じゃあ、ここからどうするか?」と常に前向きに考えてくれていました。…落ち込んだ姿を僕には見せていなかっただけかもしれません。本当のところはどうなんでしょう。

でも、治療中も、ずっと僕専属の看護師さんみたいな感じで、明るく支えてくれました。「早く良くなるように頑張っていこう!」という感じで。そんな母の気丈な姿に僕は救われていた、それはたしかです。

手術後、病室で母とこっそり食べた思い出のプリン

病気の手術のために入院する際は、母が毎回2カ月くらい看護師の仕事を休んで、付き添い入院をしてくれました。付き添い入院って本当に大変なんですよ。母は患者ではないので食事もシャワーも提供されないですし、寝返りも打てないような狭い簡易ベッドで寝て、夜もずっと子どもと一緒にいなければならないんです。

口唇口蓋裂の手術の後は、鼻から管を通されました。口を開けてはいけないので、食事はその管から摂取するのですが、それがすごく嫌でしたね。母はそれを可哀想だと思ったんでしょう。少しだけ口が開くようになったときに「何か食べたい」と伝えたら、母がひっそりと病院内の売店でプリンを買ってきてくれたんです。

母はそのプリンを流動食のようにグチャッとつぶして、そっと僕の口に入れてくれました。もちろん、本当はダメなんですけどね。母は看護師だから「これくらいなら大丈夫だろう」っていうラインはわかっていたんだと思います。カーテンを締め切って、看護師さんに見つからないように隠れて食べたプリンの味が、忘れられないです。

夜勤の大切さを母に力説され、応援体制に

僕が1歳の頃、両親が離婚して母方の実家に住むことになりました。母が夜勤でいない時は祖父母が僕の面倒をみてくれていました。

母からは「夜勤をどれだけやるかで、お給料が変わるんだよ」と聞いていたので、「夜勤は大事なことなんだ!」と、僕も小さい頃から理解していました。だから母には「夜、お母さんがいなくて寂しい」とは言いませんでした。

母は大黒柱として働いている。それは家族のため。いつも筋が通っているから、僕も前に進むしかないなと考えるようになりました。母を待つ間、「今日、家の階段の何段目の高さからジャンプできるかな?」とか、自分で工夫しながら地味な遊びを生み出して、どうにか夜を楽しく過ごそうとしていました。

母が夜勤を終えて帰ってくると、家族みんなで朝ごはんを食べます。もちろん、母も疲れている時はすぐに寝ちゃいますけど。母はなるべく一緒の時間を過ごそうとしてくれましたね。

体調不良で学校を休んだときは、夜勤明けの母と家で一日過ごせるので、実はうれしい気持ちでいっぱいでした。結局寝ないで、リビングのこたつでテレビを一緒に観たりして。そうしているうちに、母が先に寝落ちして(笑)。「せっかく一緒にいるのに、なんで寝ちゃうの?」と子どもながらに寂しかったんですが、今思うと夜勤で大変だったんだとわかります。

僕は母が大好きで、だからこそ見捨てられたくなかったし、母の負担にならないよう子どもながらに自立心がありましたし、一切反抗しませんでした。その分、祖父母には生意気なことを言っていました。「佃煮とか、ほうれん草のおひたしじゃ、ごはんは食べられないよ! もっとハンバーグとか、ガッツリしたものを作ってよ!」とか。祖母は「ごめんね…」と申し訳なさそうでした。今思えば可愛い反抗だけど、そっと受け止めてくれた祖父母には感謝ですね。

そんな祖父母は、毎日20時には就寝。母は夜勤でいない。だから夜は少しつらくて、寂しくて。ひとりで眠れないときに「深夜番組を観て時間をつぶそう」とつけたテレビで、お笑いって面白いなと思ったんです。芸人を目指すきっかけになりました。

家族と仕事のことばかり考えていたはずの母の恋

今の父は、僕が小学校6年生くらいのときに紹介されました。母は「付き合っている」とは言わなかったんですけど、「仲良い人がいるんだけど、一緒にごはんいかない?」って。だからてっきり友人のひとりだと思って会っていたんです。

今の父の家に母が外泊することもあったんですが「彼の家の方が病院に近いから、夜勤明けもラクなんだ。仕事が忙しいときは、あっちの家に泊まるね」と説明されたことがありました。

そこから1、2年後に「実は結婚を考えているんだ」と告げられました。正直、ちょっと寂しかったし、母をとられてしまう感覚もありましたね。「母がいなくなったら、僕はどうなってしまうのだろう」なんてぼんやり考えることもありました。

再婚後、以前より笑顔が増えた母

正直、僕は母の再婚については不安が大きかったんです。でも、本当に結婚を決めたのをきっかけに、母がどんどん幸せそうになっていったんですよ。そんな母を見て、僕の不安もおさまったし、つられて僕までうれしくなりましたね。

これまでは趣味もなく、家族のために仕事して寝に帰るだけだった母の生活が、プライベートを楽しむようになって笑顔がぐんと増えたんです。結婚してから、「母」としてではなくひとりの「人間」としての生きがいを見つけたんだと思います。

今の父は、本当に優しい人です。幼い頃に両親が離婚して、「父」という存在に馴染みがなかったのに、彼は馴染んでいたんです。だんだんと「この人がお父さんだといいな」と思えるようになっていきました。

父は母方の姓「星野」になり、結果として婿入りすることになりました。実は、僕が小さい頃に「離婚で苗字が変わったのが嫌だった」と話していたことを、母はしっかり覚えていて、父に相談したそうなんです。話を聞いた時、本当に母と父の優しさに胸がいっぱいになりました。

看護師の母を誇りに思います

そんな母も一昨年、還暦を迎えました。そろそろ定年かな? と思ったら「まだまだ、働けるうちは働くよ」と話すんです。やっぱり、母はたくましいなと。看護師一筋でずっとやってきているので、「看護師」として生きることに、やりがいと誇りを感じているみたいです。本当にかっこいい。

そんな母を見て育ったので、僕も小さい頃から「看護師になりたい」「母と同じ職業に就きたい」と話していました。それが母はうれしかったようです。

でも、芸人になりたくなったので、高校一年生の頃に母に本当の夢を伝えました。看護師になりたいと語る僕を「自慢の息子」と思ってくれていたみたいだし、少し寂しそうでした。「応援するけど、芸人って難しいんじゃない?」と言われたのも覚えています。母もショックだったのかもしれません。

それが今では実家に帰ると、サイン用の色紙がたくさん用意されているんですよ。ご近所や友達に僕のサインを配るために(笑)。今では「看護師兼・芸人ほしのディスコの母」として楽しんでいるみたいです。地元で声もかけられているみたいで、うれしそうでよかったです。

▶︎ピース又吉「医療従事者の皆さん、頑張ってください」は違う。看護師の母を見て僕が思うこと

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撮影:小原聡太
取材・構成:ピース株式会社
企画・編集:藤田佳奈美

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