ピース・又吉直樹さん:「折しものコロナ禍で、医療従事者の皆さんの過酷さ、そして尊さがフィーチャーされました。自分も家族も病院に行きますし、感謝しきれません。だからといって『看護師のみなさん、頑張ってください』と言うだけなのは違うと思っていて。僕たちはもっと看護師という仕事の実情と実態を知らなければならないと、切実に思います。そのうえで、看護師の皆さんがもっと働きやすい環境を得るにはどうすればいいのかを、社会全体で考えていく必要があるでしょう」
そう語るのは、お笑い芸人として、そして作家として活躍中のピース・又吉直樹さん。最新刊となるエッセイ集『月と散文』では、看護師だったお母さまとの様々な思い出が綴られました。

5月12日は“看護の日”、5月14日は“母の日”ということで、ピース又吉さんに身近で感じた看護師という職業に思うこと、子どもの視点から見た看護師のお母さまへの気持ちをお聞きしました。
3人の子どもを育てながら看護師として医療現場に従事

僕の母は、鹿児島県の加計呂麻島の生まれなんです。奄美大島の一部で、沖縄によく似た文化や風土を持つ、南東寄りの自然豊かな島です。
母は高校を出たら看護師になろうと早くから決めていたようで、進学する看護学校の都合から、高校の卒業式を待たずに船に乗って大阪に出たと聞いています。
その後、仕事の都合で大阪の寝屋川に移り住んだところ、たまたまアパートの隣の部屋に住んでいた父が泥酔しているのを見かけ、介抱したことが両親の出会いのきっかけなのだそうです。
そんな馴れ初めからもわかるように、母は昔からとにかく世話焼きな人でした。常に他人に奉仕せずにはいられないようで、スーパーの買い物帰りに僕の友達と道ですれ違った際、手頃なお菓子がなかったから、買ったばかりの牛乳を1本手渡していたこともありました。友達も困ってしまいますよね。
母は人のために何かをするのが当たり前と思っている節があって、家族だけでなく誰にでも親切で優しい人です。その意味でも看護師は天職だったと思います。
傍らで見ていて、看護師というのは不規則で大変な仕事だということはよく理解できました。それでも、母は家庭でも働き者でした。僕には4つ上と3つ上に姉がいて、3人の子どもを育てながら夜勤もこなしていたわけですから、ふとした瞬間に疲れた顔をしていたのを思い出します。

それはそうですよね。夜勤明けの日って、僕ら外野は休みのように思ってしまいますけど、そうじゃなくて単に夜勤明けは労働を終えた日で次の出勤に備える日なんですから。それでも仕事と家事や育児を見事に両立していた姿は、いま思い返しても頭が下がります。
僕も小学生の頃からご飯を炊いたり洗濯機をまわしたり、できるかぎりのお手伝いはしていましたけど、好きなサッカーを思う存分やらせてもらえましたし、きっと僕らの知らないところでたくさん負担をかけていたのではないかと思います。
幼心にも頼もしく、格好良く見えた看護師として働く母
看護師として働く母の最初の記憶は、僕がまだ5歳くらい、保育園に通っていた時のものです。突然発熱してしまって、母が勤めている病院に連れて行かれたんです。

そこで初めて目にした仕事着姿の母が、パリッとしてとても頼もしく感じられたのを覚えています。
また、小学校に入学してまもない頃、家の前で母とドッジボールの練習をしたことがありました。そこで僕はボールを受け損ねて顔を打ち、鼻血を出してしまったんです。
けっこう盛大に血が吹き出ていて、幼い自分としては大いに不安なんですけど、母はその程度の怪我には慣れていますから、「ああ、このくらい大丈夫やで」と、ちょっと拭う程度で済ませてしまうんです。
それでも不思議なもので、母が大丈夫というならきっと大丈夫なんだろうと、妙な信頼感がありました。

ただ、小学校低学年の時、発熱を自覚しながらも「このままどこまで我慢できるか、限界にチャレンジしてみよう」と、変な好奇心を発揮して誰にも言わずにいたら、誰の目にもわかるくらい顔色が悪くなり、母にめちゃくちゃ怒られたことがありました。
当たり前ですけど、ちゃんと処置をしないと大事になるかもしれないことを、看護師の母は知っているわけです。とにかく、状況を見てテキパキと動く母は格好良かったですね。
いつも他人の世話を焼いていた母の思い出
仕事とプライベートの境目なく、常に他人の世話ばかり焼いていた母は、入院患者のお子さんを自宅であずかることも珍しくありませんでした。「お母さん(入院患者)がいない間、大変やろ。うちへおいで」と、何の躊躇もなく言えてしまう人なんです。

いまだったら患者の子どもを家であずかるなんて、たぶん許されないですよね。大らかな時代だったのか、それとも地方出身者ならではの気質なのか、子どもの頃は狭い実家に知らない人が一緒に住んでいるようなことが頻繁にありました。その子たちとはいまだに交流があり、結婚式に呼ばれたりもしているようで、僕もコメント動画を贈ったことがあります。
そんな家庭だったので、母が夜勤で家を空けることが多くても、寂しさを感じたことはあまりないんです。自分の部屋がなかったため、むしろ当時は孤独が贅沢な時間で、1人になりたいがために公園でよくボールを蹴っていたものです。
実の息子がそんな不便を強いられている傍ら、中学時代には家が貧しいチームメイトの遠征費を、母が肩代わりするようなこともありました。さすがに「なんで我が家が」と疑問に思いましたが、仲間がそろって遠征に行けるのは良いことなので黙っていました。

また、高校進学の際、音楽コースか美術コースかを選ばなければならず、絵を描くのが好きだった僕は迷わず「美術コースで」と母に伝えました。ところが保護者説明会で、学校側から「音楽コース志望者が少なくて困っている」という説明があったらしく、「音楽コースにしといたからね」と帰ってきました。世話焼きなのはわかるけど、これにはさすがにブチ切れましたね(笑)。
母はたとえ自分や家族が後回しになろうとも、一度決めた親切は頑なにやり通そうとする人間です。それが時にやりすぎに見えることもあり、「もう少し自分の好きなことにお金や時間を使ったら?」と言ったこともありますが、「いや、これでいい」の一点張りなんです。
医療の現場をもっと知ることが大切
母は結局、定年を迎えてからも、しばらく看護師の仕事を続けていました。よほどこの仕事が好きだったのでしょう。加計呂麻島時代の旧友たちが数十年ぶりに集まる同窓会の日も、母は夜勤明けで出掛けていきましたからね。
70代になったいま、働き通しだった母もさすがに引退していますが、あらためてその半生を通して感じるのは、医療の現場の過酷さと、慢性的な人手不足です。だからこそ、母がその一端を担っていたことは、僕にとっても誇らしいことでした。

2人の姉は、学校を出たあと介護施設に就職しましたが、これも間違いなく母の影響でしょう。とくに次姉は、母が勤めていた病院と同じグループの介護施設で働いていたので、「あら、又吉さんの娘さんなの」とよく声をかけられたそうで、母の職場での献身的な働きぶりをたびたび耳にしていたようです。
先日、母の付き添いで、ある病院を一緒に歩く機会がありました。母はすれ違う看護師さん一人ひとりに会釈をしたり、ねぎらいの声をかけたりしていて、その謙虚さに驚きました。この仕事の大変さを肌身で知っていればこそですよね。僕も、後輩芸人やスタッフさんたちに対して常に謙虚な姿勢でいなければと、あらためて学ばされました。
ただ、他人のために忙しなく動きまわっているのは相変わらずのようで、僕が大阪でライブをやる際には、母は大量の本や色紙を持って楽屋に現れます。「知り合いに頼まれたからサインしたってや」と。
もちろんありがたいことですが、こんな大荷物を老体に鞭打って持ち運ぶのは大変だろうにと、心配が勝るのも事実です。

だから少しでも親孝行をしてやりたいと思うのですが、なにしろ物欲のない母のこと。何かをプレゼントしようと提案しても、いつも断られてしまいます。結局、少しでも時間を作って、まめに会いに行くのが一番の孝行なのでしょうね。
取材/友清哲
企画・編集/藤田佳奈美
撮影/小原聡太
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1980年、大阪生れ。吉本興業所属。2003年、綾部祐二とお笑いコンビ「ピース」を結成。現在は作家としても活動中。2015年、『火花』で芥川賞を受賞。新作エッセイ『月と散文』発売中。
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