• 2025年5月12日
  • 2025年5月9日

下半身麻痺の佐藤弘道「体操のお兄さんを見てた子が看護師となり僕を支えてくれた」

 

「自立歩行できるようになりましたが、まだ脚の感覚がなくて、ずっと痺れている感じ。便意や尿意の感覚はうっすら戻ってきたけど、おならは勝手に出ちゃうから、エレベーターなどの密室で誰かと一緒になる時は、やっぱり不安で緊張してしまいます」

昨年6月、脊髄梗塞により下半身麻痺の状態に陥った、“体操のお兄さん”こと佐藤弘道さん。脊髄梗塞はいまだ治療法が確立されていない難病ですが、ストイックにリハビリに打ち込み、わずか2カ月で支えなしに歩けるまで奇跡の復活を遂げたのは記憶に新しいところです。

入院中、そして現在も続くリハビリ生活において、理学療法士や作業療法士、そして多くの看護師のサポートを受けたと佐藤さんは振り返ります。

5月12日・看護の日に合わせて、過酷な状況の支えとなった周囲の存在、そしてそこから得られた新たな気づきについて話を聞きました。

突然の激痛、そして下半身麻痺を発症!

その日、僕は鳥取県で行われる研修会に出席するために、朝4時に目覚まし時計をセットしていました。すると起きた瞬間、左足が少し痺れていることに気付いたのです。

そのときは「寝相が悪かったのかな?」と、あまり気に留めることなく身支度を整えたのですが、空港に着く頃には吐き気をもよおしたり、腰回りに締め付けられるような激しい痛みを感じたり、症状は明らかに悪化していました。

ですが、荷物をすでに預けてしまっていたこと、そして何よりも現地で待っている皆さんに迷惑をかけたくないという思いから、とりあえず行けるところまで行ってみることにしました。

しかし、フライト中も症状は酷くなるばかり。痛みに耐えられず、シートの上で身をよじりながら苦しむ僕の様子から、さすがに只事ではないと感じた妻が、機内のWi-Fiで関係各所に連絡をとってくれて、着陸後はそのまま病院へ直行することになりました。

その時点ではもう、腰から下の感覚はまったくありません。僕は両腕でシートの手すりに捕まりながら、下半身を引きずるようにしてどうにか機外へ出ました。

「自分で自分の脚を持ち上げて、なんとか車椅子に乗りました」(佐藤さん)

そして救急搬送された病院では整形外科の先生が待っていて、すぐにレントゲンを撮ることに。しかし、腰椎や背骨に異常は見られません。いったい原因は何だろうと先生が思案しているところに、たまたま居合わせた脳神経外科の先生が何かを察し、「これは脊髄かもしれない」と、今度はMRI検査を受けることになりました。

診断の結果は、脊髄梗塞。僕はそのまま、鳥取の病院に入院することになったのです。

生きていてもしょうがない……と絶望する日々

脳梗塞や心筋梗塞は知っていても、脊髄梗塞という病名にピンとこない人は多いでしょう。僕もそうでした。

先生いわく、これは10万人に1人くらいの割合でかかる珍しい症例で、生活習慣などに起因する脳梗塞や心筋梗塞と違い、まったくの原因不明。いつ誰がかかってもおかしくない病気なのだそうです。

自分でも手元のスマホで調べてみたところ、いまの医学では脊髄梗塞を治療する術はなく、できるのはリハビリと支持療法くらいのものとあります。つまり、もう一生治らないという現実を突きつけられたわけで、僕は深い絶望感に襲われました。

昨日まで普通に生活していたのに、仕事に復帰するどころか、このまま歩くこともできず、トイレすら自分でできない生活が続くのです。それでは今後、何のために生きていけばいいのかわかりません。

到底受け入れられる現実ではなく、この時期は毎日、病室の窓を見ながらいつ飛び降りてやろうかと、ネガティブなことばかり考えていました。

入院中、苦悶の表情を浮かべる佐藤さん。(ご本人提供)

そんなどん底の中で印象的だったのは、看護師の皆さんの明るく優しい対応でした。

僕は下半身の感覚がないため排泄障害があり、便が出ているのか自分ではわかりません。そのため、男性の看護師さんが、僕の肛門に指を入れて便が出切ったかを確認します。大の大人の男の僕としては、恥ずかしいやら悔しいやらで、とても複雑な胸中だったのですが、「女性看護師に言いにくいことがあったら、何でも相談してくださいね」と寄り添っていただきました。

他の看護師さんからは「子どもの頃、いつもテレビで楽しみに見ていました」と声をかけていただいたことも。こうして弘道チルドレンが医療の現場で活躍していることを肌身で実感できたのは、僕にとっても勇気づけられる出来事でした。

幼い頃に僕の番組を見て育った子が、大人になって今度は僕を支えてくれる立場にいるというのがなんだか心強く、自然と気持ちが前を向き始めるのを感じました。

「明るい家族にも励まされた」と話す佐藤さん。(ご本人提供)

リハビリで体の使い方を習得する

鳥取の病院には、3週間お世話になりました。ステロイドの効果で少しずつ脊髄のむくみが引き始めると、少しずつではありますが足の指、膝、股関節と、順に動くようになりました。相変わらず感覚はないものの、これは大きな進歩です。

繰り返しになりますが、脊髄梗塞は治らない病気です。だから、リハビリによってどこまで動きを回復させるかが、唯一のテーマになります。

そこで作業療法士の方に付いてもらって、最初は関節をぐるぐると動かしてもらったり、足を曲げ伸ばしたり、ごく簡単な動きからリハビリをスタートします。そしてある程度それができるようになったら、今度は座る練習や、車椅子からベッドに自分で移動する練習など、本当にひとつずつ地道にできることを増やしていく毎日でした。

時折作業療法士のおじちゃんに不安な胸中を打ち明けると、「大丈夫、大丈夫。おしっこなんて垂れ流しておけばいいんだよ〜(笑)」と励ましていただいたのをよく覚えています。

リハビリは決して楽ではないのですが、この頃には周囲のサポートや、ファンの方からの応援の声に支えられ、むしろキツいトレーニングほど楽しんでやれていました。決められたリハビリの時間以外も、必死に自主トレに励んでいたので、いつしかそんな僕の形相を見た看護師さんから、「鬼の佐藤さん」と呼ばれるようになったほどです(笑)。

すべての医療従事者の、希望の星になりたい

そうした努力の賜物なのか、東京に転院してから2週間もすると、僕は歩行器を使って病棟の中を歩き回れるようになっていました。

脊髄梗塞は発症すると歩けないままの人も多い。(ご本人提供)

少しずつですが結果が出たのが嬉しくて検査やリハビリを続けていたところ、頑張りすぎた反動からか、全身に帯状疱疹のような湿疹が出ちゃって。看護師さんが「夜、寝る前にナースコールしてください」と言うので呼ぶと、大量の湿疹一つひとつに薬を塗ってくれたんです。なんだかお母さんのようでした。

そのあとは、医師の勧めでリハビリ専門の病院に移ることになりました。

この時期はとにかく一刻も早く自宅に戻りたい一心でリハビリ三昧の日々を送り、ようやく退院が決まったのが8月のこと。しかし、当初の予定では12月末まで入院する予定だったので、経過は極めて順調と言えるでしょう。

ちょうどその頃、長らくお世話になっていたNHKの『おかあさんといっしょ』が放送65周年を迎えるということで、特番への出演オファーが舞い込みました。この収録の現場が、僕にとって約3カ月ぶりの復帰の舞台となります。僕はこの時、できる範囲の動きにアレンジして、「たいそうメドレー」にも参加させていただきました。

いま現在も、腰回りの感覚はありません。スマホが見当たらないと思ったら、お尻のポケットに収まっていることはよくありますし、お風呂に浸かる時も足から入ると温度がわからないので、先に手を入れて確認する必要があります。

それでも、いまもどんどん動ける体を取り戻している実感があり、病院の先生からは「奇跡だね」とか「驚異的な回復力」などと言われます。

これも厳しいリハビリを必死に頑張ったからですが、病院では僕よりもはるかに大変なリハビリを強いられている人もたくさん目にしました。そのたびに、「自分はまだマシなほうだ」と気持ちを引き締め、甘えを捨ててリハビリに打ち込んだのがよかったのだと思います。

現在も定期的に筋肉トレーニングを行っている。(ご本人提供)

リハビリとは、いつ効果が表れるのかわからないもの。だから、とても過酷です。1カ月先なのか、それとも1年先なのか、ゴールがまるで見えない中でトレーニングを続けなければならない不毛さから、心を病んでしまう人も珍しくありません。

そしてそれは、傍らで一緒に戦ってくれる看護師や作業療法士、理学療法士の皆さんにとっても同様でしょう。いつも明るい笑顔で自然に接してくれる医療従事者の皆さんですが、患者になかなか効果が出ない時は、内心で無力感に苛まれることも多いと聞きます。

だからこそ、僕が脊髄梗塞から元気に復活する姿を見せることが、すべての医療従事者の方々にとっての希望になり、恩返しに繋がるのではないかといまは思っています。

鳥取から東京へ転院する際、最初にお世話になった医師の先生や看護師さんたちが、「歩けるようになったら遊びにおいで!」と元気に送り出してくれた姿が、僕はいまも忘れられません。あの笑顔に支えられたからこそ頑張れたと言っても過言ではないでしょう。今よりもっと良くなって、絶対にまた遊びに行きます。

だから医療従事者の皆さんにもまた、自分たちがいかに患者にとっての希望であり、心身ともに支えになっているのかを、ぜひ知っていただきたいですね。

取材/友清哲
写真/小原聡太
企画・編集/藤田佳奈美

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