• 2023年12月18日
  • 2023年12月18日

看護師になって後悔している人へ。

 

命と向き合う「看護師」という仕事。仕事を仕事として割り切りづらく、精神的に追い詰められた「看護師の私」が私生活にも侵食し、いつしか「看護師ではない私」が置き去りになっていくーーー。

多くの看護師から共感を得ているX(旧Twitter)のフォロワー数2.5万人超えのSKY BLUE@ポジティブナースさんも、かつては自死を選ぼうとしたことが2回ありました。それでも今、ポジティブナースと自称できるほど、「看護師になってよかった」と思えるように。

ICUや救命救急など生死に直結する過酷な業務を経験したからこそ見えてきた、看護師歴19年目の彼女に、その胸中を綴ってもらいました。

死にたい夜が明けるまで。

「夜勤に行きたくない!もう死ぬから」。

私は興奮状態で母にそう伝えた。看護師2年目の夜、夜勤前に突然過呼吸になった。今までつらい仕事に耐え続けてきたメンタルが、とうとう崩壊した瞬間だった。興奮状態の私は、小学校の頃に図工で使っていた彫刻刀があったことを思い出し、咄嗟にそれを手に取った。手首を切って死のうと、本気で思った。

あれから、気づけば看護師人生も19年目を迎えた。つらかった日々を乗り越え、今では看護師を続けられてきたことを誇りに思う。そして看護師という仕事を通して、人間的にも成長することができたように思う。

その中でも、死生観については深く考えさせられ、自分の中での看護観が構築されるきっかけにもなった。看護師という仕事は、人の生死に向き合う仕事であり、さらには患者さんの長い長い人生の最期の一場面に関わらせていただくことができる尊い仕事だと思う。だからこそ、忙しい業務の中でも「これがこの人の最期になるかもしれない」と考えながら看護をすることで、自分なりに心のこもったケアができるようになった。患者さんから学び、成長させてもらいつつ、看護師という仕事は私に「人生の選択肢」を与えてくれた。

看護師3年目までは、ずっと「仕事ができない人」というレッテルを貼られてきた。毎日仕事に行くのに必死だった。新人の時は寮に住んでいたが、「誰か私を誘拐でもしてくれないかな…」という考えが浮かぶほど、病院に向かう足が重くなっていた。この文章を読んでくれている方の中にも、今まさに同じような気持ちで日々を過ごしている人がいると思う。そのような人たちに、私自身がどうやってつらい日々を乗り越え今に至ったのかをお伝えすることで、少しでも気持ちが楽になったり、乗り越えるきっかけを与えることができたらいいなと思う。

叱責される日々が始まる。

私が看護師になったのは、20歳の時だった。高校で衛生看護科を卒業した後、最短コースで看護師免許を取得し、大学病院に就職した。配属先は「HCU/CCU/救急外来」だった。ドラマ「ナースのお仕事」に憧れて看護師の道を目指し、短大の時には「救命病棟24時」というドラマに憧れて、救命救急やICUなどにも興味を持った。しかし、いざ働き始めると、ドラマの世界とは全く違う厳しい現実が待ち構えていた。

HCU/CCUの自動ドアを一歩入ると漂うピリついた空気。先輩たちからとても厳しく叱責される日々。ありとあらゆることに関して、激しい口調で詰められ、指導を受けた。ミスをするとすぐに病棟中に噂がまわり、看護師だけではなく医師からも「できない新人」というレッテルを貼られた。3人いた同期も、1人は途中でうつ病になり退職。もう1人も1年目の終わりに部署異動でいなくなり、私だけが取り残された。相談できる人は誰もいなかった。

同期がいなくなった2年目からは、先輩たちの目が全て私に向けられて、休日でも電話がかかってきて怒られたり、病院に呼び出されることもしょっちゅうあった。プライベートでも、いつ電話がかかってくるか不安な思いで過ごした。先輩からは、「前にも言ったよね!?」「質問に答えられるまで患者さんの元に行かなくていいから!!」「あんた患者殺す気!?」など、とてもきつい言葉を浴びせられ、一つひとつの言葉が心にグサグサと音を立てて刺さっていった。

日々自分の自己肯定感が削られていき、どんどん萎縮していった。「自分はできない人間なんだ」と思うことで、本来ならできることさえもミスをするようになり、また怒られるという負のループにはまっていった。夜になると同じ寮に住む先輩からロビーに呼び出され、毎日のように指導を受けていた。そんな先輩たちが退職した。当時のプリセプターは私とかなり年齢が離れていたため、相談はできなかった。同期もおらず、プリセプターにも相談できず、なぜ看護師になったんだろう、なぜHCUなんて選んだのだろうと後悔した。

こんなにつらい日々だったのに、辞めるという選択肢はなかった。当時は今ほどSNSが発達していなかったため、同じ悩みを持つ同志や、先人からのアドバイスなどがネットにあることを知る由もなかった。加えて、「就職したら定年退職するまでその場所で働くのが普通」という親の価値観をそのまま信じ込んでいた。だから退職や転職という選択肢があるなんて思いもしなかった。つらくても、ただただ月日が経つのを待ち、耐え続けるといった選択肢しかなかった。

仕事が終わりホームで電車を待っていた時、「このまま電車に飛び込もう」という考えがふと思い浮かんだ。しかし、「ローカルの電車に飛び込んでも死にきれない。このまま飛び込んでも自分の病院に運ばれるだけだ」という考えがよぎり、そのままトボトボと帰宅した。実家に帰った後、母に相談した。その時は母に話を聞いてもらったことで、気持ちが少し楽になり、そのままなんとか1年目を終えることができた。

心が決壊した夜。

2年目になっても、まだまだ怒られる日々は続いた。インシデントを毎月1回は起こすようになり、インシデントレポートを書くようになった。ある日、夜勤入りの前に副師長から「あなたインシデントレポートを書けばいいって思ってるんじゃないの?なぜ同じようなことを起こすのかもう少し考えなさい」と指導を受けた。今思えば、とても適確な指導だけど、この一言が私の今までなんとか耐えてきたメンタルが崩壊するきっかけになった。

帰宅後、数時間の仮眠を取ろうとしたところ、副師長に言われた言葉がフラッシュバックし、日々怒られ続けてつらかった思いがピークに達し、突然パニック状態になった。過呼吸になり、手足がしびれ、自分でも呼吸を制御できない状態になった。「もう限界!死にたい」と思い、仕事中だった母親に電話をして「もう夜勤に行きたくない!もう死ぬから」と泣きながら伝えた。母親は「なにバカなこと言ってるの!夜勤には行きなさい!」と言い、仕事に戻った。気持ちを理解してもらえず、さらに興奮状態となった私は、机から彫刻刀を取り出し、手首を切ろうとした。

その瞬間、母親から再び電話がかかってきた。「つらいのは分かった。でも夜勤には行きなさい。今日あなたが夜勤に行かないと他の人や患者さんに迷惑がかかるでしょ?明日夜勤が終わったら、師長さんに辞めますと言ってきなさい。もう辞めていいから。だからこの8時間だけ頑張ってきなさい」と言われた。“もう辞めていいんだ”と思えたことで、逃げ道ができた気がした。

夜勤に行き、何とか朝を迎え、師長に辞めることを伝えた。師長は、つらさを理解してくれた上で、退職ではなく異動を提案してくれた。今の現実から逃れることができるならどこでもよかった。異動する旨を指導者に伝えたところ、「ごめんね。つらさに気づいてあげられなくて。私は、あなたともっと一緒に働きたい。これからは何かあったら、何でも言ってきて。他の人達から守るから」と言葉をかけてくれた。この指導者の一言で「私を必要としてくれている人がいる」と思うことができ、もう少しここで頑張ってみようと思った。

病院以外の世界を知って。

そこからは、その先輩の気持ちに応えたい一心で、勉強をし直し、予習だけではなく復習に力を入れるようになった。先輩から「10年経っても、見返した時に使えるポケットノートを作りなさい」と言われた。参考書にある言葉をそのまま書き写すのではなく、なるべく平易な言葉で記載し、イラストを交えて書いていった。特にHCUや救急外来で行う処置については、たくさん記載した。医師によっても使う物品が違ったり、やり方が違うため、それも一つひとつ記載した。

すると本当に見やすいノートが出来上がり、仕事中困ったときに役立った。退職する時まで、そのノートは常に白衣のポケットに入れていた。3年目になると、他の先輩から「あなた成長したね」という言葉をかけてもらえるようになり、色々な業務を任せてもらえることになった。看護師として認めてもらえた瞬間だったように思う。

そして気づけば7年目。

ICUやHCUでの業務はほとんどこなせるようになっており、リーダー業務や実習指導も任されるようになっていた。そんな中、30歳を目前に今後の目標を考えていたところ、特にないことに気が付いた。もう、ここの病院ではやりきった気がした。26歳頃から趣味で英会話教室に通い始めていたこともあり、海外にワーキングホリデーに行きたいと思うようになった。実は高校生の時に、姉妹校との交換ホームステイとしてニュージーランドに行ったことがあり、初めての海外でかなりの刺激を受け、大人になったら絶対にまた行きたいと感じていた。しかし、仕事が始まるとまとまった休みも取れずに、その思いは忘れ去られていた。

早速休みを取って1週間だけニュージーランドに行くことにした。1週間はとても短く、色々な失敗もしたけど、一人で海外に行けたということが自信となり、ワーキングホリデーに行きたい思いがさらに強くなった。そして翌年、心を決めて、8年間働いた病院を退職した。退職する時、看護部長が「1年間休職扱いでワーキングホリデーに行くのはどう?」と提案してくれてとても嬉しかったが、なんだか足枷をつけられたまま海外に行くと制約があるような気がしてお断りした。退職後は、夢だったニュージーランドでのワーキングホリデーを経験した。この海外での生活は、私の価値観そして生き方を大きく変えることとなった。

就職してニュージーランドに行くまでの8年間は、職場ではずっと自分を偽って生きてきており、居場所がなかった。「できない新人」というレッテルがずっと貼られているようで、人からの評価がずっと気になっており、人から嫌われることがとても怖かった。

しかし、ニュージーランドに行ってからはその思いから解放された。「できない新人時代」の私を知る人なんてどこにもいない。素の私のままで関わっても、相手は素の私のままを受け入れてくれた。半年だけの生活だったけど、日本にいる時よりも肩の力が抜け、本来の自分らしさを取り戻すことができた。

そして気づいた。今まで、自分がどれぐらい狭いコミュニティの中で悩み、苦しみ、人から嫌われることを恐れてきていたのかということを。世界はこんなにも広くて、自分が一歩踏み出すだけで世界中の人と出会うことができる。狭い世界で嫌われることに悩むのはもうやめようと思えた。

選択肢があることを知るだけでも、人生は好転していく。夜は明けていく。

ニュージーランドでの半年間を経て、今自分が置かれている場所以外でも、自分が生きやすく思える場所は必ずあることを知った。私には選択肢があると思えただけで、より「自分らしく」生きることができるようになった。

いま私は、応援ナースとして全国の病院で期間限定で看護する働き方をしている。そして今の働き方は私にとても合っていて、心身ともにストレスなく過ごせている。様々な経験を経て、私が皆さんに伝えたいことは、人生の選択肢をたくさん持つようにした方がいいということ。

看護師という職業柄、日々とてつもないストレスの中で生きていると思う。そのストレスを分かち合うために、医療従事者同士で関わりを持ち、愚痴を言い合うことも大切。でも、それだけだと解決にはならないし、視野が狭くなり選択肢を狭めてしまう要因にもなりかねない。

選択肢を増やすには、様々な経験をすることがとても大切で、経験を増やすためには、自分の知らない世界の人と出会うこと。一歩踏み出し、環境を変えること、新しいことにチャレンジすることで、視野が広がり、選択肢も広がっていく。

今はSNSを通して、全く違った職種の人と関わることができる。最初は興味がなくてもいい。その人の仕事の話や価値観を聞いてみてほしい。すると、今まで病院の世界だけしか知らなかったことに気が付くと同時に、新たな世界を知ることで自分が拡張されていく。たくさんの可能性を感じる。いつしか自分に合った仕事や働き方が分かってくる。

私は一度看護師を辞めて、海外で違う仕事を経験したことで、リフレッシュでき、「やっぱり、また看護師として働きたい」と思うことができた。今となっては、新人の頃に先輩たちに厳しく指導されたことも、全て必要だったと思うし、今の私の看護の基礎となっている。

もし、今仕事がつらくてしんどい人は、逃げ道はあるし、逃げたとしてもいつでも自分の力で自分の人生を切り開いていけることを、どうか知ってほしい。仕事を辞めるのもありだし、頑張って続けてみるのもあり。成功体験も失敗体験も後々に生きてくる。国家資格を持っている看護師だからこそ、一度辞めてもまた戻れるという強みもある。まずは自分の体を大切にした上で、信頼できる人に相談しつつ、どうしてもつらくなった時には「逃げてもいいんだ。ほかにも私に相応しい場所がある」と自分に言い聞かせ、看護師だけが全てではないことを頭の片隅に置きながら、心を軽くして働いていってほしいと、切に思う。

文・SKY BLUE@ポジティブナース 構成・藤田佳奈美

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